語坊

横須賀・三浦を中心に活動する朗読ユニット「語坊(ユファン)」のウェブサイトです。

カテゴリ: 歌は語る

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いつしか風も冷ややかになり、朝の散歩もプラプラとゆっくり。
坂道を上りながら見上げる空は高く青く、白い雲の広がりがもう秋なのだなーと思わせる。
その瞬間に浮かぶ歌。
♪今はもう秋〰
&♪秋でもないのーに~
いつもこれだ―なー、沁みこんでいる。

「歌は語る」今月分け合いたい「語る歌」。
自分外の世界覗いてみようか、ネットサーフィンいってみよう。
「秋の歌ベスト10」何故か知らない歌ばかり。世の中かわってしまったのだな。
「日本人の心に響く秋の歌」かろうじて何曲か今までに語ってもらった曲たちもい、なじみの曲もあるけれど。
「秋の童謡・唱歌」そこにありました!
「童謡・唱歌」ここにいると穏やか、落ち着く、思いは広がる、友人知人故人にも会える気がする。

その中から「こおろぎ」。この歌、今歌いたい。

楽曲「こおろぎ」
関根栄一 作詞  芥川也寸志 作曲


こおろぎ ちろちろりん こおろぎ ころころりん 
ちろちろりん ころころりん

にいさん ちろちろりん おとうと ころころりん
ちろちろりん ころころりん

やさしい ちろちろりん かわいい ころころりん
ちろちろりん ころころりん


小さい体で大きく鳴いています。
夕暮れから夜じゅう明け方まで。
鳴きたりないのか昼も。
今月は「こおろぎ」歌いながら散歩を楽しんでまいりたし。
とりあえず皆様、10/2(土)午前7時それぞれのおうち出発!後30分間くらい、「こおろぎ」歌いながら散歩決行!
帽子、ハンカチはながみ、マスク、ソーシャルディスタンス。
大雨大風その他諸々のご事情のある場合は決行しないでおきましょう。

作詞の関根栄一氏は、ご存知の方多いでしょう團伊玖磨氏作曲で♪あんまりいそいで こっつんこ ありさんとありさんと こっつんこ~をも作られました方。
もちろん他にも他にも。NHK学校音楽コンクールの課題曲を何回か作られたり、校歌他もたくさん。「円卓の騎士」のアニメ作品ではテーマ曲始め関連曲も。
作曲の芥川也寸志氏は、♪小鳥はとってもうたがすきー・・・・・・♪ブランコゆれるおそらがゆれる・・・・・・の童謡の作曲者というより、音楽家か。
作曲のジャンルは多岐にわたり、活躍の場も多岐にわたり、音楽番組司会者、物書きとしても大いに活躍された方です。

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夏休みの旅行とばかり思いこんでいました。
東大生の「私」は秋に旅をしているのでした。

何回も映像化され、ヒロインは売り出しの女優さん。
「私」はペアで売り出されます。
この作品の原本著作は川端康成。タイトルは「伊豆の踊り子」。

 道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思うころ、雨足が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追って来た。
 私は二十歳、高等学校の制帽をかぶり、紺飛白の着物に袴をはき、学生カバンを肩にかけていた。一人伊豆の旅に出てから四日目のことだった。修善寺温泉に一夜泊まり、湯ヶ島温泉に二夜泊まり、そして朴歯の高下駄で天城を登って来たのだった。重なり合った山々や原生林や深い渓谷の秋に見とれながらも、私は一つの期待に胸をときめかして道を急いでいるのだった。そのうちに大粒の雨が私を打ち始めた。折れ曲がった急な坂道を駆け登った。ようやく峠の北口の茶屋にたどり着いてほっとすると同時に、私はその入口で立ちすくんでしまった。あまりに期待がみごとに的中したからである。そこに旅芸人の一行が休んでいたのだ。

川端康成『伊豆の踊り子』


朗読教室で必ずテキストになる作品。男性の声でききたい。
学ぶ身としては、これがこの作品らしく音声化できると嬉しい。

この物語が歌になる。文芸歌謡と呼ばれる作品が作りあげられていった。
1928年1月1日、三浦三崎の海を眼下に、城ケ島に一飛びというような
高台にあるお寺様で生まれた三浦洸一氏が歌った。
黒柳徹子もともにいたという今の東京音大、当時の東洋音大で学ばれた。
端正な明るめなとてもいい声。艶のある錬れた声音はご自身のものだけでなく、代々のDNAかもしれず。

楽曲「踊子」
喜志 邦三 作詞 渡久 地政信 作曲


さよならも言えず泣いている
私の踊子よ・・・・・・ああ船が出る
天城峠で会うた日は
絵のようにあでやかな
袖が雨にぬれていた
赤い袖に白い雨・・・・・・

月のきれいな伊豆の宿
紅色の灯(ともしび)に
かざす扇舞すがた
細い指のなつかしさ・・・・・・

さよならも言えず泣いている
私の踊子よ・・・・・・ああ船が出る

下田街道海を見て
目をあげた前髪の
小さな櫛も忘られぬ
伊豆の旅よさようなら・・・・・・


作詞の喜志邦三氏(1898/M31/3/1-1983/S58/5/2)は大阪府堺市生まれ、甲子園口に長く居住された。早稲田大学英文科卒業後新聞社勤務。12歳ごろから始められた詩作によって号を「麦雨」とし抒情詩を発表し続けた。新聞社勤務の後、神戸女学院大学で詩学など講じられた。詩集や論評を多くものし、新進詩人の育成にも努められた。国民歌謡「春の唄」「お百度こいさん」もこの方の作。

作曲の渡久地政信氏(1916/T5/10/26-1998/H10/9/13)は沖縄恩納村生まれ。
1943年歌手デビューの後1951年作曲家デビュー。「お富さん」「島のブルース」
「湖愁」「ああ青春に花よ咲け」などヒット曲多数。

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楽曲  沙羅の木
森鴎外(森林太郎) 詩   小松耕輔 作曲

褐色(かちいろ)の根府川石に
白き花はたと落ちたり
ありとしも青葉がくれに
見えざりしさらの木の花



森鴎外ご自宅「観潮楼」の庭に植えられた沙羅の木を詩歌集の題名にとり、その詩歌集の最後の方にこの詩があります。
1915年、大正4年鴎外53歳の時の発表とか。
沙羅の木と聞いて、インドのあの沙羅双樹の木の下を思い浮かべたり、祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の事は理をあらはす、とおもわず歌い始めたりしてしまいます。


はたりと夏椿の白い花が落ちてきたよ。
根府川石の上に。
石の濃紺の色味と沙羅の花の白
おお、この色の配り。
さらのきの白い花よ。
君 美しいではないか。
木にあったときは緑色の葉に隠れがくれに咲いていたのだものね、
青葉の中で咲いていた時にもまして根府川石の上の君。
美しいではないか。
さらのきの白い花よ。

  こんなイメージが浮かびました。

この詩には、ほかの方も曲をつけておられていますが、明治17年12月秋田の生まれの努力の作曲家小松耕輔氏を上げさせていただきました。
最期の日を迎えるころ「若いうち一ときは西洋音楽もよいけれど、やっぱり日本の音楽がいいよね」と堀内敬三氏におっしゃったという。
お母上の奏でる琴、三味線の音に親しまれ、長じて音楽大学進学、さらにはドイツ・フランスへの留学。その都度猛勉強にて語学もマスター。
戻られてからは後進の指導をはじめ、日本に合唱を根付かせる音楽活動を中心になされたと。
♪ふるさとのやまのあけくれ みどりのかどに たちぬれて いつまでも われまちたもう・・・・と竹久夢二の詩にも曲をつけられています。

森鴎外という方は・・・・


コロナ禍のステイホームで大片づけ、いやいや終活のための断捨離か。
こんな日常が、私を18歳に連れてゆきました。

バラ色の地に梅の小枝のある10円切手が貼られた四角い封筒が出てきました。
中には便箋2枚。
薄青いヒメジオンらしきカットの入ったものです。
お誕生日おめでとうと一行目。
そして、あれこれあれこれ。
――あなたは私と同様少し小心ですね・・・・。小さな冷たさを放つときも無きにしも非ず・・・・・。
かといって私が豊かな心を持っているわけでなく、温かみのある人間かと聞かれればクシュンとなっちゃう・・・・――
あれこれあれこれ。
続けて、彼女がとても好きというこの「沙羅の木」の詩を書いてくれていました。

18歳になりたての私。
「沙羅の木」が好きだった彼女。
そう、彼女はその頃、カモシカ少女と呼ばれていました。
今はカモシカマダム?!山登り家(やまのぼりか)です。
「語坊」の大応援者でもあります。
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楽曲 小鳥の歌
与田準一 作詞  芥川也寸志 作曲

小鳥はとっても 歌がすき
母さん呼ぶのも 歌でよぶ
ピピピピピ
チチチチチ ピチクリピイ

小鳥はとっても 歌がすき
父さん呼ぶのも 歌でよぶ
ピピピピピ
チチチチチ ピチクリピイ

この小鳥さんは誰でしょう。
おうちで飼われている小鳥さんの気がします。
ピピピピピ チチチチチ ピチクリピイ がひらがなで表記されているのもあります。
まず歌ってみましょう。
どんなお顔で歌っていますか。
笑顔でしょう?
1952年発表の童謡です。

作曲家芥川也寸志氏は芥川龍之介の三男。長兄比呂志、次兄多加志。
与田氏より20年あとの1925年に生まれ1989に亡くなっている。
管弦楽から合唱曲から放送音楽から舞台音楽から器楽曲から童謡他と多岐にわたって作曲家として活躍、
並んでお話も書き物も重ねて言わせていただけば容姿も人をひきつけられた方。
1950年発表の♪きゅっきゅっきゅうとくつをみがこうとよく歌った「きゅっきゅっきゅう」という相良和子作詞の曲もこの方のもの。


与田準一氏は福岡山門の生まれ。「山門」!?こう聞けばあれ、あの方とお知り合い?と推測なさるあなたは只者ではない!!
「山門」と書いて「やまと」と読む大好きな故郷を、「わが産土(うぶすな)」と歌い始め、
「故郷やそのかの子ら、皆老いて遠きに、何ぞ寄る童ごころ」と最後を収める「帰去来」の作者北原白秋、あのひと。

ご推察の通り、「赤い鳥」に投稿していた代用教員時代に北原白秋のお声がけで「赤い鳥」編者となるべく上京。
童謡のみならず、少年詩も、そして新美南吉など書き手に出版の機会をとも励まれた。

1905(M38)年6月25日生まれの氏は第2次世界大戦中故郷へ疎開、戦後42歳の時再び上京。
東京都三鷹市に住まわれ1997(H9)年2月3日91歳で亡くなられた。
「まりーちゃんとひつじ」など翻訳もなされ、日本女子大学児童科講師も勤められた。
岩崎京子、あまんきみこ、生源寺美子、宮川ひろの方々はその折の教え子と。

ちなみに、「ブルーシャトー」「ブルーライトヨコハマ」「銀河鉄道999」他多々ヒット曲の作詞者橋本淳氏はご子息、また娘さんはドイツ文学者であられると。

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歌劇「蝶々夫人」より ある晴れた日に
堀内敬三 訳   プッチーニ 作曲

ある晴れた日 遠い海のかなたに煙がたち 船がやがて見える
真白い船は 港に入り 礼砲を打つ 
御覧 あの人よ
だけど迎えにゃいかない

近くの岬に出て そこで あの人を待つのよ いつまでも
港の町を離れて 人の姿が山を登ってくる
あれはどなた?
登りつめれば 何をいうでしょう
遠くから「バタフライ」と呼ぶのよ
答えずに 私は隠れましょう
さもなけりゃ・・・・・・・
嬉しさに死ぬかもしれない

するとあの人は私を呼びます
「かわいい奥さんオレンジの花」ちょうど昔よく呼んだように
きっといつかこうなるの だから泣いちゃいやよ 
あの人は帰る  ほんとよ

歌劇の舞台は長崎で、ヒロイン蝶々さんのお相手はアメリカ海軍士官ピンカートン。
蝶々さん15才での出会い。うれしき楽しき生活は続かず彼は帰国してしまう。
3年後に戻ってきますが傍らには夫人。お別れです。
鎹のはずのお子はピンカートンの手元へ。
この後の蝶々さんいかがなったか、ずいぶんなお話ですが・・・・・・

アリアです。
蝶々さんが歌うのです。
高ーい声で。
♪あ~る はれたーひー
ピンカートンは帰ってくるわと、健気に待つ決意をし再び出会える場面を想像して、歌います。
その時の蝶々さん自身の心を。
夢中で、ありったけの思いを、ありったけの声で歌います。
「ある晴れた日に」は歌劇「蝶々夫人」の中からとりだされた一曲です。

訳詞の堀内敬三氏(1897.12.6-1983.10.12)は、浅田飴の堀田伊三郎氏の三男。工学博士。
ですが、洋楽の発展に尽力されました。訳詞、作詞作曲、評論、教育にと。
訳のついた耳なじみの曲には、「春の日の花と輝く」「眠りの精」「遠き山に日は落ちて」「私の青空」等々。あの美しい「冬の星座」は作詞です。この作曲者はウイリアム・シェイクスピア・ヘイスで、この方は1837年に生まれ1907年に亡くなっています。

プッチーニについても一筆。
「蝶々夫人」の作者プッチーニはジャコモ・アントニオ・ドメニコ・ミケーレ・セコンド・マリア・プッチーニといい1858年12月22日生まれ、1924年11月29日亡。癌によりと記されています。
イタリアのオペラ作家。「ラ・ボエーム」「トスカ」「トゥーランドット」他有名です。
お写真からは、口髭を蓄え、髪型はオールバック、ダブルのスーツで、ザ・イタリアを感じます。
初代がトスカーナのチェッレからルッカに移住。後、宗教音楽家を輩出。
五代目の彼は14才で教会のオルガニストとなりましたが後オペラに魅入られ力を注いだ。
今、ルッカにある彼の生家はプッチーニ博物館になっているそうです。

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